婦美は稲毛の病院で診察を受け、その後母子手帳を貰った。つわりがひどく 家事もままならなかったが、母が毎日のように手伝いにきてくれた。そのつわ りも四ヶ月目には終わった。胎児の成長は順調で、検診では、心音を聞き超音 波映像もみることができた。婦美は、俊のことを思いだすことも少なくなってき ていた。
  五ヶ月目に入り安定期となると、胎動も感じるようになった。病院の超音波 検査でお腹の中の子は男の子と分かった。聡と両親の喜びようは大変なものだ った。婦美はただ子供を無事生むことしか考えていなかった。聡の両親も本来 ならもっと婦美を非難してもよさそうなものだったが、とにかく授かった男の 子のことが嬉しく、婦美の家出の問題など、どこかに飛んでしまっていた。 聡は言った。
 「僕は研究に夢中になるとろくに返事もしなくなるらしいね。僕も悪かった」
 「貴方には悪い所など一つもなかったわ」
 「走り書きにもそうあったね。男性と一緒と思ったが、あの人が相手とは。去年、結婚式で会ってからのことだね」
 「・・・ごめんなさい」
 「中学、高校とあの先輩に憧れていたんだね?女子校にはありがちなことだ。僕は許せるよ」
聡は続けた。
 「待ちに待った長男だ。大事にして、健康な赤ちゃんを産んでね」
  胎児の祖父母たちは狂喜していた。婦美も、妊婦らしくなっていく外見を、自 ら誇らしく思うようになり、自分が完全に母親になっていることを感じた。も う頼りない女学生ではなかった。婦美は、二十六歳にしてやっと一人の大人の女 となったのだ。俊のこを思い出すことも殆どなくなっていた。胎児は、その存 在を強く主張し、キックもするようになり、婦美はそれに喜びを感じた。

  七ヶ月目に入り、十二月になった。クリスマスソングが、始終テレビや街頭 でも流れるようになり、街には年末の活気が感じられるようになった。 しかし、それは否応なく、婦美に、昨年のクリスマスを思い出させた。あの房 総での俊とのドライブを。そして、車の中での抱擁とキスを。それは、物狂 おしいまでに婦美を寂しい気にさせた。そして、あのときにクリスマスプレゼ ントに貰ったサファイヤの指輪をだして、つけてみたりした。俊はどうしているだろう。 そう思ったがどうしようもないことだった。記憶の暗闇に深く沈めなければならない。
  クリスマスを過ぎた二十六日の朝、婦美の携帯に電話が入った。出てみると 意外な人物からだった。
 「大内さやかです」
婦美は驚いた。
 「お話したいことがあるのですが」
 「私は身重であまり動けません」
 「稲毛まで参ります。明日の一時に稲毛駅の改札に行きます」
婦美は電話を切った。いやな予感がした。俊はあの後さやかとよりを戻したの だろうか?
  翌日婦美は稲毛駅に出かけた。さやかは既に待っていた。やつれた ように見えた。睡眠不足なのか、泣いたためなのか、眼は充血していた。そし て、婦美の大きなお腹を見た。その眼に一瞬憎悪にも似た光が浮かんだ。二人 は駅前の喫茶店に入った。さやかはコーヒーを一口飲むと言った。
 「二十三日に俊が死にました」
 「えっ」
婦美は驚愕の余り声も出なかった。そしてやっと振り絞るような声で言った。
 「・・・何故・・・」
 「真夜中、館山の海岸道路を100キロを超えたスピードで走って、カーブを   曲がりきれず崖下に転落したの。血液中から大量のアルコールが検出されたわ」
婦美は祈るような気持ちで訊ねた。
 「・・・事故だったんでしょう?」
さやかが、厳しい声で言った。
 「自殺でも、事故でも、崖際の道を酔っ払ってフルスピードで走らせたのは貴女よ! 貴女は、俊を殺したのよ!」
それだけ言うと、彼女は憤然と席をたって店を出て行った。
 婦美は暫く動けなかった。そしてやっとのことで伝票を持つてレジまで歩き 会計を済ませた。
 彼女はショックの余りまともに歩くことも出来なかった。 ふらふらしていた。そして、店の出入り口のわずかな段差に躓いて転んだ。 起きようとしても起き上がれなかった。腹部に激しい痛みを感じた。周囲にい た人達が寄ってきた。
 「あなた、大丈夫?」
 「妊婦さんだ。救急車を呼んで!」
そう叫ぶ人の声が聞こえた。多くの人が心配して婦美の周りを取り囲んでいた。
 「もうすぐ救急車が来るわ。しっかりしてね」
 「救急車がきたぞ」
婦美は、薄れ行く意識の中で、救急車のサイレンを聞いた。


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