産婦人科医は言った。
 「おめでとうございます。妊娠ですよ」
その言葉を聞いて婦美の心のなかには意外なほどの幸福感が溢れた。もっと違う反応を 予測していた。しかし婦美の心の中には満足しかなかった。
  婦美は、医者の診断がでてから自宅に帰り、俊に連絡しないで考え続けた。仮に俊と 二人で、子供を育てるとする。俊は、今戸籍上女性であるから、まず多田に認知を頼む ことになる。多田とおしゅうと達とは離婚や養育権で最後まで争うことになるだろう。 その上、俊と結婚するためには、法律に従い、俊が性転換手術をして戸籍上男性に変わら なければならない。両家の両親も俊と婦美の結婚には、納得しないだろう。俊は、結婚し ていい父親になるかもしれないが、子供が多田の子供であることに内心苦しむに違いな い。これは婦美の直感であった。それに肝心の子供はどうだろう。やがて、自分の育て の父親が性転換したことを知ったとき、子供にとって、それは耐え難いことに違いない。 考えれば考える程、俊と一緒に子供を育てることは困難なことになる。しかし、彼女 には俊と別れることも考えられなかった。婦美は、これからの行く先を思い途方にくれた。
 午後聡から電話があった。
 「婦美?病院へは?」
 「行ったわ」
 「それでどうだった?」
 「おめでただって」
 「婦美、落ち着いてね。慌てないでね。僕の子供だ。身体を大切にしてね。 明日そこへ行くよ。婦美の両親も喜んでくれるよ・・・もちろん僕の両親も」
そういう聡の声は弾んでいた。

 俊は夜九時に帰ってきた。そして言った。
 「おめでただった?」
 「・・・ええ」
 「婦美おめでとう。二人で育てよう」
 「今度の日曜日に多田と私の両親がここに来るわ」
俊は驚いて言った。
 「えっ?多田さんから連絡あったの?」
婦美は静かに答えた。
 「実は多田は昨日ここに来たのよ」
 「婦美・・・」
俊の顔に苦悶の表情が浮かんだ。そして、少し気色ばんで言った。
 「誰が来ても僕は婦美を離さないよ。別れる気はないからね。その積もりでいて。 日曜日?望むところだ。待とうじゃないか」
そう言って、俊はビールをぐいと飲んだ。ダイニングには鯵の塩焼きがあった。
 「婦美、ちゃんと食べてくれ。僕まで何も食べられなくなるよ」
 婦美は、疲れを感じて何も食べずに、そのまま寝室に入り眠った。

 翌日の午後、俊が会社に出勤した留守中、聡と両親が来た。婦美は三人を居間へ通し た。
 「婦美、お前はなんと言うバカなことを!」
そう言うと、父は婦美の頬を軽く平手で叩いた。ピンという乾いた音がした。父に叩かれ たのは初めてだった。父は我慢がならないようだったが、それも当然なことだった。
自分はもうこの世から消え去ることはできないのだ。そして逃げ切ることも。
母親なのだ。
 「昨日病院へ行ってくれたんだね?妊娠だったんだね」
聡が聞いた。婦美は頷いた。
 「婦美、おめでとう。」と母は言った。
 「聡さんのところへ帰るのよ。子供は父親の手元で育てるのよ。私達は三年も待ったのよ」
聡が言った。
 「婦美、前田さんは男性ではない。浮気でさえないよ。君は夢を見ているだけだ。 戻ってくるんだよ」
婦美は、この俊についての発言には腹が立ったが、反論する元気はなかった。
 「日曜日にまた来るよ。前田さんと話し合う」
そんなことには耐え切れない。婦美は思った。そんな俊を見るのは耐えられない。一人前 の男性として立派に生きているのに、それを理解しない人達との話など不可能である。
 「俊とそんな話をするの?三対一で?」
聡が言った。
 「戻らないなら、婦美、親権は僕が取るよ。裁判で勝つのは眼に見えている。君は 子供と離れ離れだ」
 「耐えられない、そんなこと」
 「耐えられないんだったら帰るんだな」と父が言い、続けた。
 「このままここにおいておくわけにはいかない。いずれ帰る破目になるんだ」
 「婦美、言うことを聞いて。母親でしょう?子供のことを一番に考えるべきよ」 と母が言った。
 婦美は両目に一杯涙を溜めて俊のことを思った。やはり帰るわけにはいかない。
 「婦美、来なさい」
父が婦美の片腕を掴んで無理矢理にソファから立たせた。婦美は抵抗した。
 「お父さん、乱暴なことは止めてください。婦美は今身重です」と母が言ったが、 父は聴かなかった。
 「婦美、子供が大事なら帰りなさい。今連れて帰る」
父はそう言って婦美の両腕を掴んだ。婦美は泣きながら部屋から引きずりだされ そうになった。
 「今日帰れなくても日曜には必ず連れて帰る。前田さんとちゃんと話し合ってな」
婦美は抵抗できなかった。全身から力 が抜けた。そして観念した。それは多分昨日 妊娠を知った時以来、既に覚悟していたことかもしれない。彼女は言った。
 「今日稲毛に帰ることにするわ。もう皆は帰って。少し片付けをして、俊には手紙を 残して、後で一人でタクシーで帰るわ」
聡がほっとしたように言った。
 「僕の時と同じだね。いずれ僕とご両親が前田さんとちゃんと話し合いをするよ」
母が言った。
 「今日聡さんと一緒に帰るのがいいよ。婦美は大切な身体よ」
父が厳しい口調で言った。
 「そうしなさい」
暫く考えて、婦美が言った。
 「では一時間ほど待っていて。わたしは俊に手紙を残すから」
そう言って、婦美は、俊の書斎に入った。婦美の長い嗚咽が書斎から聞こえてきた。

  やがて、眼を真っ赤に泣き腫らした婦美がでてきた。そして言った。
 「もういいわ。荷物を纏めるからちょっと待ってて」
 婦美は既に整理して用意してあったようである。直ぐ荷物は纏まった。 別々に タクシーで、両親は中目黒に、婦美と聡は稲毛まで帰った。婦美は、タクシーの中で、 俊が帰ってきて手紙を見たときを思った。また涙がこみ上げてきた。聡はそんな婦美を 静かに見守っていた。

  その一週間後、聡と両親は俊と話し合い、婦美と俊は別れた。俊は、覚悟していたよう に殆ど何も言わず、ただ三人の言い分を静かに聞いていたということである。
 俊の最後の言葉として
 「元気な赤ちゃんを産んで幸せになってください」
ということだけが伝えられた。

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