その夜、九時に俊が帰宅した時、婦美は明かりもつけずソファーに横になったまま だった。俊は照明をつけると言った。
 「どうかしたの?明かりもつけないで」
 「・・・・・」
 「何かあったの?・・・婦美、顔色が悪いね」
婦美が答えようとしたとき、吐き気が婦美を襲った。ソファーに横になったまま、思わず 口を押さえて嘔吐を堪えた。
 「病気?どこか悪いの?」
俊は心配してソファーの前に座った。
 「具合の悪いところでもあるの?」
婦美には暫く、何も言えなかった。
 「顔色も悪いしおかしいよ。何かあったね?」
婦美が呟くように言った。
 「・・・妊娠しているかもしれないの」
 「えっ!」
俊は、暫く言葉が出てこない様子だった。婦美自身は妊娠を確信していた。 使った検査薬は非常に正確なものだった。漸く、俊が言った。
 「婦美の子供が欲しかった。二人で育てよう」
 「貴方の子じゃないわ。多田の子よ。そんなの無理よ」
俊が考えるように言った。
 「僕は結構いい父親になると思うけどな」
首を振りながら婦美が言った。
 「籍はどうするの?誰が認知するの?私生児になるの?」
彼女は聡が帰ってから、このことを考え続けていたのだった。俊が力を込めて言った。
 「僕は手術して戸籍上の性別も変えるよ。正式に結婚しよう」
この結婚のため戸籍上性別を変える話は、今まで二人の話に何回か出ていた。その度に 、婦美は、手術が俊の身体に悪いと反対していた。しかし、これは非常に強い俊の希望 であった。脅迫観念に近い欲求なのだろう。
  婦美は、ソファーに横になったままだった。新しい命のことしか考えられなかった。
 「妊娠は確かなの?受診もまだなのに」
 「明日病院へ行ってみるわ」
 「それがいい」
そう言って、俊はダイニングの方を見た。
 「それでも夕食はちゃんと作ってくれたんだね」
俊は冷蔵庫から缶ビールを出して開けた。そして、何時も通り、何事もないように美味 しそうに飲んだ。
 「肉じゃがか。ぼくの大好物だ。婦美もまだだろう?夕ご飯食べよう」
 「食べてもまた吐くだけだわ」
 「そんなこと言わないで。食べなくちゃ駄目だよ」
 「産婦人科を受診するまで何も手につかないわ」
 「それでも料理してくれたじゃないか。美味しいよ」
俊はもう一本ビールを出した。心なしか手が震えていた。動揺を抑えているようだった。
 「明日、午前中に病院へ行ってくるわ」
 「婦美、変な考え起こさないでね」
俊が、暫く考えてから言った。
 「もしそうだったとしても、生んで二人の子として育てよう」
そう言ったとき俊の顔は、苦痛に歪んでいた。もしそうなら、婦美のお腹の子は、二人の 間に入った闖入者である。しかも多田の子である。俊はだんだん酔ってきた。彼の裡に は、婦美の中の多田に対してこみ上げてくる猜疑と嫉妬があった。婦美は、思った。仮に 俊と結婚までできたとしても、聡とあのおしゅうと達は子供の養育権では最後まで争って くるだろう。簡単なことではない。
  婦美は黙ったままだった。午後中考え続けてきたことだった。中絶をしての俊との幸せ はあり得ない。婦美は授かった命をあくまで万全な状態で育み、生まなければならない。 彼女は、お腹の中の子の母親である。なにがあっても無事生まなくてはならない。 婦美は、既に自分の中で芽生えた命への愛情を感じていた。
  婦美はそのまま寝室に入り眠ってしまった。

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