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   第五章 命

  俊と婦美の二人の生活は、新鮮でまた懐かしさにも富んだものだった。俊は、学生 時代と変わらず面白かったし、よく婦美を笑わせた。俊との生活は楽しかった。しかし、 時折、聡のことを思い出すこともあった。そういうとき、婦美の顔には翳りが走った。 聡はどうしているだろう?苦しんでいて欲しくない。むしろ怒っていて欲しい。婦美は そう思った。
  二人はよく代官山近辺を散歩した。ある時、散歩の途中で面白い食材を見つけてきて、 料理をした。俊は言った 。
 「婦美、駄目だ、僕は太ってしまう」
 「恰幅がよくなっていいかもよ」
 「太った おじさんになって婦美に嫌われたくない」
こういう時、婦美は自然に聡のことを思うのだった。聡は何を食べているだろう。彼も 料理は全く駄目だ。婦美が顔を曇らせると、俊は直ぐに気がついて、言った。
 「婦美、今幸せ?」
 「もちろん幸せよ。小鳥の公園での約束が本当になったんだもの」
 「そうか。それならいいよ。今に嫌なことは皆忘れられるよ」
しかし、聡との三年間の思い出には、嫌なことは何もなかった。俊との再会以後、二人の 男性の存在が婦美を苦しめただけだ。俊は婦美の中の聡に嫉妬をしているようだった。 婦美も聡を忘れようとしたが、それはまだ無理だった。時が解決するのを待つ以外ない。


  婦美が走り書きのメモを残してから、一ヶ月が夢のように過ぎた。七月のある火曜日 だった。午前十一時位にインターホーンが鳴った。書留か何かだろう、と婦美は思って、 受話器をとった。
 「はい」 というと
 「婦美、僕だよ」
という声がした。聡の声だ。婦美は慌てたが、結局、玄関のドアを開けた。聡が一人で 立っていた。
 何時かこんな日が来るのではないかと思っていた。婦美は、混乱していたが、聡をリビングに通した。 聡はソファーに腰を下し言った。
 「元気そうだね」
そして続けた。
 「探偵社を使ったよ。婦美のお父さんとお母さんからも話を聞いた。婦美、君は 女学校時代の夢を見てるんだ。僕にはよく分かるよ」
婦美は黙ったまま何も言えなかった。ただ申し訳ない思いで一杯だった。
 「・・・帰ってきてくれないか。婦美がいないと仕事も手につかない」
その時、突然婦美を吐き気が襲った。婦美は慌ててキッチンへ駆け込むと流しの三角コー ナーに吐いた。朝食をすべて吐いていた。聡も驚いてキッチンまでついてきた。 そして言った。
 「婦美・・・君、妊娠してるんじゃないの?」
突然背中に冷水を浴びせられたような気がした。
 「妊娠検査薬はない?・・・ある訳ないか。僕が近くの薬局を探して買ってくるから ここで待っていなさい」
聡は、そう言うと、急いで出て行った。婦美は混乱する頭で考えてみた。そういえばこの 二ヶ月は生理がとても弱かった。それは異常なほどだった。
 聡は二十分ほどで戻ってきた。
 「妊娠してるかどうかこれで確認してみて」
 婦美は、自分の身を襲った激しい事態の成り行きに呆然としていたが、聡に従った。 説明書を読みトイレに入り、確認してみた。はっきりと妊娠の兆候が出ていた。
  聡は言った。
 「どれ、貸してみて」
そして結果を見て、興奮して叫ぶように言った。
 「婦美、赤ちゃんがいるんだよ。早速午後病院へ行って受診した方がいい」
聡は、婦気の両肩に手を置いて抱き寄せ、優しく言った。
 「いい?必ず病院へ行ってね」
聡は嬉しそうだった。彼は今後のことをいろいろ話していたが、婦美はショックで上の空 だった。そして、聡は授業があると一時過ぎに帰った。

  婦美は、聡が帰った後ソファーに横になったまま、なかなか起き上がる気になれなか った。妊娠・・・。まさか、この期に及んで子供ができるとは。俊にはどう説明しよう。 大変なことになったが、どうしたものか考えが纏まらなかった。病院へ行かなければ・・・ しかし、彼女には今はそれだけの気力もなかった。
  婦美は夕食の準備をしながらまた吐いた。すっぱいものが欲しいとは思わなかったが、 このところ何故か無性に黒砂糖が食べたかった。

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