婦美は担架に乗せられ救急車でかかりつけの病院へ運ばれた。
  七ヶ月という早産だった。婦美は余りの痛みに気を失いかけた。そして、 医師と看護師の誘導通りに出産は終わった。しかし赤ちゃんの泣き声は聞こえ なかった。婦美は意識が遠くなるような思いをしながら必死に聞いた。
 「・・・赤ちゃんは?赤ちゃんの声が聞こえないわ」
看護師が身を屈め、耳元で言った。
 「大丈夫、大丈夫。心配しないで。赤ちゃんは元気よ」

 すぐに両親が来た。一時間後に夫も来た。
 「婦美大丈夫か?」
聡が聞いた。
 「赤ちゃんは何処?」
 「今、NICU (新生児集中管理室)で保育器に入っている。1100グラム はあって、命に別状はないよ」
 「よかった」
そう言うと婦美は 涙を流した。
 「私は人間を一人殺したわ」
 「何を言うんだ。赤ちゃんは無事だよ」
 「違うわ。・・・俊を殺したわ」
婦美は聡に途切れ、途切れに事情を話した。しかし聡も両親も、新しい命のこと しか考えていなかった。婦美は泣き続けた。俊はもういないのだ。もう二度と あの微笑を浮かべることもないのだ。婦美は病院のベッドの上で苦しみ続けた。

  婦美は二週間後産婦人科から同じ病院の精神科に移った。精神的なショック が大きい為か、一種の興奮状態が続き、まともに睡眠がとれなくなったためで あった。夜の睡眠は三、四時間だった。
  医師が大事をとって入院させたのだった。しかし婦美は安定剤を飲むことを 拒否した。
 「赤ちゃんに授乳しなければ・・・。薬の混じったお乳など飲ませられない わ・・・」
頑として安定剤を飲まないので、点滴で安定剤を入れようとすると、今度は半 狂乱となって抵抗した。医師は言った。
 「安定剤を飲むと楽になりますよ。効くまで時間はかかりますが」
しかし、婦美は決して薬を飲まなかった。一週間の精神科入院の後、聡 も医師も諦めて退院の手続きをした。聡は婦美を抱き抱えるようにして、 NICUへ連れて行った 。
 「・・・文隆という名前になったからね」
聡は言った。
 「右から三番目の保育器の中にいる。障害の残る怖れもないそうだよ」
婦美は感動して涙を流した。
 「私だけ幸せになれる訳はないわ。俊は死んでしまったのに」
 「婦美、事故だったんだ。婦美が殺した訳ではない」
 「・・・・私が殺したのよ・・・」
 「それなら僕も同罪だ。婦美一人の判断で家に帰った訳ではない。頑張るんだ、 婦美。子供のためにも」
 婦美の苦しみは大きかったが、わが子文隆に対する愛情が彼女をこの世に留 めたといえる。その後、文隆はNICUから出ることが出来た。そして、婦美は初 めての子をその腕で抱くことが出来た。彼女は、胸の中の文隆に対する大きな 愛情を感じた。そして、この子のために立ち直らなくては思った。

  家に戻って文隆が退院してから後は、育児の忙しさが、婦美に俊の事を忘れ させてくれた。婦美は、まだ時折泣いていたが、子育てに追われるうちに涙を 見せることも少なくなった。聡は毎日感激しながら文隆をお風呂に入れていた。
 「待望の男の子だ。次の子も期待できるかもしれない。文隆に余り手がかか らなくなったら二番目も考えよう」
  婦美は曖昧に微笑んだ。また子供を授かれるとは思っていなかった。しか し、聡は努めて明るく振舞い、婦美のともすれば暗く落ち込みがちの生活に活 気を与えててくれた。

  婦美は、時折、俊を思い出す。それは俊の微笑んだ顔だった。束の間ではあるが、二 人は愛に燃え上がり、九年の思いを遂げることができた。俊は婦美を恨んではいなかった だろう。他の誰をも憎んでいなかっただろう。婦美はそう信じた。婦美への最後の言葉 「元気な赤ちゃんを産んで幸せになってください」は本心だったのだろう。 俊はもともと寂しそうな笑を浮かべて、長生きしたくないと言っていたのだ。 彼はその運命を信じ、それに従ったのだろう。
  そして、俊のあの微笑、それは婦美の心の中から永遠に消え去ることはないだろう。 婦美の裡には、今も永遠に癒えることのない激しい心の痛みと共に、俊の微笑みが浮かぶ。
  あの少しおどけた小さな子供をあやすような微笑が・・・。
            

 
ご意見ご感想がございましたら、 こちらにおねがいします。

- 24 -


inserted by FC2 system