婦美は週に二、三回の割りで代官山のマンションを訪れていた。大抵 週一回は、俊がフレックスタイムで、午後三時頃までマンションにいた。 そういう時、二人は婦美の準備したお昼を食べて、ベッドを共にした。
   俊がいない時も、週に一回は、午後から片付けをして夕食の準備をし て帰った。婦美は五時までには自宅に帰らなければならない。俊の帰宅 は何時も深夜だった。

  ある日、婦美が洗濯物を取り込んでいた時、突然俊が帰ってきた。
 「・・・どうしても会いたくなった」
そう言うと、俊は、婦美と長いキスをした。
婦美の帰り際、俊が言った。
 「婦美と一緒に暮らしたい。この状態はもう耐えられない。ご主人と まだ別れられないの?」
 「わたしも同じ。だけど言い出せなくって。いい夫なのよ」
暫くの沈黙の後、俊は 言った 。
   「それなら、黙って家出すればいい」
 彼女は黙った。その手もあるが、聡の受けるであろう衝撃を思う。 しかし、俊と自由に会えない事は、もっと耐え難い。聡に二人の関係を 隠して、このまま生活を続けることはもう不可能だ。この状態は限界だ、 と婦美は思った。
  俊は言った。
 「婦美は身一つでここに来ればいい。必要なものは皆買ってあげる。 多田さんのお金で買ったものは何一つ持ってきて欲しくない」

  五月の末、聡が、二泊三日の予定で京都での研究会へ出かけた。その 聡の留守の間に、婦美は家を出る決心をしていた。その日、一日泣き 続けながらマンションの片付けをした。三年間の思い出の処分でもあ った。もう後戻りはできない。
  自分の衣服は、実家から持ってきたもの以外は全て綺麗に処分した。 まだ使えるものは、バザー用として母校に宅急便で送り、他はゴミと して出した。冷蔵庫を片付けて、聡の一日分くらいの食事を用意した。 写真帳などから写真を集めたが、処分することができずに持って行く 荷物と一緒にした。最後に実印を押印した離婚届を印鑑証明書とともに 聡の机の上に置いた。手紙を考えたが、纏まらなかった。
 婦美は片付けをしながら、聡の愛情、聡への愛情を思った。それは、 静かであるが決して弱いものではなかった。しかし、俊への激しい思い には到底逆らえるものではなかった。

  翌朝、婦美は置手紙だけを残して家を出た。それは・・・貴方には何も悪いところはないのよ。三年間をありがとうございました。もう戻ることはありません。探さないで・・・ という短い走り書きだった。
  マンションの下で俊の愛車が待っていた 。婦美は助手席に乗ると、 涙を浮かべた。
 「・・・どこかへ旅行へ行こう。僕が休みが長く取れないから近場だね。 日光かもっと行って裏磐梯か」
 「とてもそんな気分じゃないわ」
 「だからこそ行くんだよ。嫌なことは皆忘れよう」
俊も辛そうな顔をした。
 「僕が平気な気持ちでいるとは思ってないだろうね?」
婦美は溢れる涙を手で拭った。俊は黙ってハンカチを差し出した。婦美 はそれを受け取り涙を拭った。もう後戻りは出来ない。俊と婦美は代官山 へ向かった。

  俊は、代官山のマンションをリフォームして、壁紙とカーテンを替え て、婦美が来るのに備えていた。マンションに着いても、婦美はずっと 泣いていた。昼ごはんには、寿司をとったが、婦美は殆ど食べなかった。 三年共に暮らしてきた人と別れるということが如何に大変なことか知った。 これほどまでに辛い試練と犠牲を乗り越えての俊との生活だ。婦美は俊 と幸せにならなくてはいけない。俊はそんな婦美を気遣って静かに見守 っていたが、午後会社に出かけた。
  俊は、七時に帰ってきた。
 「裏磐梯の国民休暇村に予約を入れたよ」
俊が言った。
 「明日の朝早く出かけよう。何もかも忘れるんだ。五色沼を歩こう。 まだ新緑が残っているだろう」
婦美は泣いていた。
 「夕食は食べたの」
 「とても食べる気分じゃないわ」
 「何か食べなきゃ駄目だよ。食べにどこかへ行こう。この近所には いい店が沢山あるよ」
 「・・・・」
 「婦美、後悔してるんじゃないだろうね」
 「ええ。ただ苦しいだけ」
 「今に忘れられるよ」
婦美はそのまま眠ってしまった。
              
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