婦美はどうしても聡に別れ話を持ち出すことができなかった。二ヶ月 が過ぎ、五月になった。もう少しで結婚記念日が来る。彼は申し分のな い夫だった。言い出すことはとてもできない。どうして聡に別れ話など できよう。しかし、俊と交わした約束があった。婦美は苦しんだ。
  彼女は聡の前で平静を装っていたが、彼女が何かに気を取られ、悩み 苦しんでいる様子は、注意深く見れば容易に分かった筈である。実際、 尋ねてきた婦美の両親は、彼女の様子に気付いた。母が、心配して言った。
 「婦美、様子が変ね。元気ないし、何か聡さんと問題でもあるの」
婦美は、どぎまぎしながら答えた。
 「別に。このところ体調がよくなく、食欲がないの」
母が期待を籠めて、すかさず言った。
 「妊娠じゃないの。早くお医者に行ってごらんなさい」
これは相変わらずである。
 「残念でした。何時もそれなんだから」
そう言って、話を逸らした。

  聡が婦美の様子に気付かなかったのは、この半年、研究に気を取られ ていたからである。彼は、重要な研究論文を次々書くことに没頭していて、 他のことは上の空であった。物理学会では特別講演もしていた。彼の研究 にとって大事なときであった。帰りも遅いことも多かったが、家にいても、 考えるときの癖で、歩き回っては書斎に飛び込んでいた。夜中に飛び起き て書斎に飛び込むことすらあった。こういう時は、婦美といても彼は上の 空である。彼女と話をしていても、碌に話しに耳を傾けることもなかった。 結婚当初は驚きもしたが、今ではそういう夫に彼女は慣れていた。聡の好 きなようにさせているのが一番である。聡は心ここにあらずという他は、 相変わらず優しく、婦美を大切にしてくれていた。彼には 何の落ち度も ない。
  今の婦美には聡の研究への没頭は、好都合ともいえた。こういうときは、 婦美を求めることも少なくなる。できるだけ夫婦生活を避けていた婦美に とって、それは返って助かっていた。芸術創作や研究は、一種の性的行為 であると言った心理学者がいたが、彼は新しい恋人を得たようなものだっ た。それでも研究が一段落すると、婦美を求めてきて、避けられないこと もあった。だが、それは婦美にとって苦痛でしかなかった。そういうとき 俊とのことを思い出すことが避けられなかった。
  それでも婦美の様子の異変に気付いたのか、ある夜、聡は言った。
 「最近元気ないね」
婦美はギクっとした。
 「そんなことないわ。元気よ」
 「子供、子供と言われて参ってるんじゃないの?」
 「子供なら何時かきっとできるわ。」
 「もう四年目になるよ。病院へ行ってみようよ」
 「そうね・・・。」
 「いい病院があるよ。実績のある。そこへ行ってみようよ」
婦美は黙った。これは偽りの会話である。何も気付いていない聡には、 心苦しくただ申し訳なかった。しかし、片時も俊を忘れることは出来ない。 こういう生活を続けることはあまりにも苦しい。もう続けることは不可能 と思った。

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