それは十階建てのマンッションの六階の2LDKだった。玄関を入ると 十八畳ほどのリヴィングダイニングがある。婦美は中に入って呆れた。 リヴィングもダイニングも新聞、建築雑誌、本の山で、空のビニール袋 や空のカップラーメンやうどん、空のペットボトルがテーブルや椅子の 上、床にまでも散乱していた。
 「俊、家庭のことは全然駄目ね。人の暮らせる場所ではないわ」
 「仕事が忙しくて家事どころじゃないんだよ」
 「これじゃあ先ず片付けないと」
  そういうと婦美は、洗濯物を集め洗濯機にかけ、その間に散らかってい るものを整頓し、掃除をした。キッチンの有様はさらにひどかった。 流しは洗っていない食器の山だった。
 婦美は笑った。
 「男の一人暮らしにウジが湧くって本当なのね」
 「ごめん。忙しいこともあって、片付ける気が起こらない。婦美が 手際いいのには驚く」
婦美の働きでマンションは素早く片付いた。俊はその手際のいい働き 振りを感嘆の眼差しで見ていた。

  俊が突然言った。
 「婦美、一緒に暮らしてくれないか」
婦美は驚いたが、それは思えば当然な発言だった。俊もさやかと別れた のだ。婦美に聡と別れてくれというのは当たり前であろう。聡は 何も 知らない。そして今も優しく誠実な夫だった。
 「夫と別れるのは大変だわ」
 「僕だってさやかと別れたんだ。性別を変更したら結婚もできる世の 中になったんだよ」
俊は言った。
 「婦美、旦那さんを愛してるの?」
 「尊敬してるわ」
 「僕は?婦美は小鳥の公園を忘れたの?」
 「忘れるはずないわ。ファーストキスの場所だもの」
 「婦美がご主人と別れない積もりならもう会わないよ。多田さんと一緒 と思うと辛すぎる」
それはできない。婦美は思った。俊と別れることなど出来ない。
 「私にだって時間が いるわ」
 「待つよ。何年だって」
そう言って俊は婦美を抱き寄せ、二人は長いキスを交わした。俊は、 自然に優しく婦美の洋服を脱がせた。婦美も逆らうことなく、そのまま、 俊はベッドに彼女を導いた。
  俊の愛撫は優しく、しかし、婦美の全身の官能を執拗に捕らえ、鋭く 呼び覚ました。彼女の求めるものすべてを感知し、それを惜しみなく 彼女に与えた。彼女も繰り返し押し寄せる波に身を任せた。婦美は、 何度も絶頂に達し、喜びの声をあげ、そして、果てた。それは、婦美が 今まで知らなかった、自らの裡にある深い愛欲の世界だった。それは 底知れない深淵である。

  婦美が帰るとき、俊が言った。
 「約束だよ。僕とここで一緒に暮らして欲しい」
婦美は考えるように言った。
 「・・・約束するわ。時間を頂戴」
 「絶対だよ」
俊は婦美とキスをして、合鍵を渡して言った。
 「ここは婦美の家と思っていい。何時でも来たい時に来ていいよ」

  稲毛に向う電車の中、愛撫の余韻が残っていた。婦美は、九年前の 小鳥の公園での自殺未遂を思い出した。そして、九年間の深い眠りから 恋が目覚めたのだ、と思った。

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