婦美は父に携帯と財布を取り上げられたが、机の中にテレホンカード を一枚隠し持っていた。彼女は、ある九月の中旬の夜、テレホンカード を持って駅前の公衆電話まで行った。そして俊子の携帯に電話した。 留守電になっていた。俊子は進学塾にいる時間だった。婦美はメッセージ を入れた。
 「塾の帰りに小鳥の公園に来て」
その一言だけだった。婦美は公園で九時過ぎまで待っていた。しかし 俊子は来なかった。次の夜もその次の夜も来なかった。やがてテレホン カードもなくなった。学校で俊子に会っても、寂しげな微笑みを浮かべ てさっと通り過ぎるだけだった。

  十月に入った 。婦美にはこの別れは耐え難かった。めっきり食事も 喉を通らなくなった。限界だと思った。ある夜、婦美は決意して、洗濯 用のロープを持ち九時半にこっそり家を出た。小鳥の公園のどこかで木 で首を吊る覚悟だった。月が出ていた。婦美は公園の中を歩き、枝ぶり のいい木を探した。かすかにこおろぎの鳴き声が聞こえた。彼女は、 もみじの木に決め、苦労してロープをかけた。そしてそれを結んだ。 そこに首をかけようとして爪先立った時、アスファルトで舗装された 小道を踏んで近づいてくる人の靴音を聞いた。婦美は驚いて尻餅を ついた。月の逆光の中に背の高い人影が見えた。
 「婦美!」
そういう俊子の声が聞こえた。
 「何をしている」
俊子は近づいてきてロープを見た。そして深い驚愕の色を浮かべた。
 「なんということを!」
 婦美は張り詰めていた気力が一気に抜けた。俊子がはっきり月の光で 見えた。婦美は、尻餅をついたまま、涙を溜めて俊子を見上げていた。
 「・・・・どうして此処に?」
 「婦美こそどうして・・・」
そう言って、俊子は婦美を抱えて立ち上がらせた。婦美が涙声で言った。
 「耐えられない。こんな状態・・・」
 「先月婦美のご両親から呼び出されて話を聞いたよ」
俊子は言った 。
 「婦美は大切な一人娘だから大学を卒業したらすぐにも結婚させる積 もりだって。娘の醜聞は困るって」
 「お父さんが?」
 「婦美とは今後二度と会ってくれるなと。そう言われた。まさか婦美 が此処にいるとは思わなかった。しかも・・・」
そして続けた。
 「受験勉強に疲れ、散歩に出たら、自然と足がここに向いてしまった。 ともかく来て良かったよ」
 二人は互いに見合ったまま暫く無言だった。やがて婦美がかすれるよう な声で言った。
 「私は俊に会えなくなるくらいなら死んだ方がましよ」
俊子が悲しそうに言った。
 「こうなったら、どうせもう会えなくなる。僕はみっちり予備校通いだし、 高校も卒業する。連絡の取りようもないしね」
婦美は首を振って言った。
 「そんなのイヤよ」
 「婦美のことは忘れないよ。何があっても」
俊子は寂しそうに言った 。そして、付け加えた。
 「何時か 婦美は幸せな結婚をするよ」
  それから二人は黙ったまま、婦美の家に向った。婦美は、月明りに 映るその横顔に、俊子の固い決意を感じた。彼女は、婦美の家の近く までくると言った。
 「じゃー婦美元気でね。二度とこんなことしちゃー駄目だよ」
婦美は何か言おうとしたが、声にならなかった。俊子は踵を返すと、 振り返ることなく帰って行った。婦美は、俊子が遠くの角に 消えるまで見送った。彼女は、その孤独な後姿を生涯忘れることはないだろう。

  年が明けて三月、俊子は見事東京大学理科一類に合格し、卒業した。

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