俊と婦美は十一月末日の水曜日、都内で会うことになった。九年 振りのデートである。婦美はかなり緊張していたが、わくわくもし ていた。念入りに化粧をして、ファッションショーの末に、シルバ ーに近いグレーのワンピースを選んだ。そして、白のコートを着て、 出掛けた。
  それはあるホテルのロビーだった。十二時に待ち合わせて共に 昼食を食べる約束だった。俊は今日は三時半に会社で打ち合わせ があるが、三時くらいまで時間があるという。俊は企画部の研究課 に属していて、基本的に月150時間のフレックスタイム制という ことだが、打ち合わせや会議が多く時間は余り自由ではないよう だった。
 婦美がロビーに入った時、俊は既にいて婦美に向かって微笑んで いた。俊はその微笑の与える効果を知っているのだろうか。そんな 風に微笑まれたら誰でも心を開いてしまう。婦美は「ヴェニスに死 す」を思い出した。主人公のアッシェンバッハがタッジオに心の中 でいう言葉だった。・・・そんな風に微笑んではいけない。誰にも そんな風に微笑んではいけないのだよ・・・俊はくつろいだ様子で コーヒーを飲んでいた。婦美は夢のような気持ちで俊の向かい側に 腰をおろした。接客係の女性が直ぐに来た。婦美はオレンジジュース を注文した。
 「何が食べたい?」
俊は自然に尋ねた。
 「肉か魚か。このホテルには両方とも専門店がある」
ロビーにはクリスマスツリーが飾られていた。
 「あまりお肉は食べたくないかな」
 「それでは生牡蠣でも食べよう」
 「結婚式では驚いた。とても背が伸びたのね」
 「もともと177センチのうえにシークレットブーツを履いているからね。 183センチを越しているだろう。単なる男の闘争心だよ」
そう言って俊は笑った。

  二人はホテルのレストランに入って生牡蠣とブイヤベースを食べた。
 「もうすぐクリスマスね」
 「婦美は旦那さんと一緒に過ごすんだろうね」
 「・・・・・」
 「イブに会ってくれとは言わない。その前か後に会えないだろうか」
 「勿論構わないわ」
 「また電話するね」
 「ええ」
 レストランは暖房が効いて温かかった。俊は上着を脱いでいた。 婦美は俊を見ながらおずおずと言った。
 「あの・・・。胸はどうしたの?」
 「切除した」
婦美は衝撃を受けて黙った。
 「そのうち休みがとれたら子宮と卵巣も摘出するかもしれない。 そうすれば今では戸籍上の性も変更できる」
 「そんなことをして健康にはよくないのじゃないの?」
 「まあ、あまり長生きはしないかもね。しかし本人の切なる希望だよ」
 「俊が早死にするなんて嫌よ」
俊は寂しそうにつぶやいた。
 「・・・長生きしようという気はないよ」
  二人は三時に別れた。何故か婦美の眼には涙が浮かんでいた。

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