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 第二章 冬  

  結婚式の翌日、婦美は何時も通り六時に起床して、夫の弁当を作り朝食の準備 をした。聡は七時に起きた。そして、頭が痛いと言った。
 「昨日飲みすぎたのよ。普段一滴も飲まないのに」
 「君こそ随分飲んでたよ。珍しいね。一体どうしたの?」
この質問には答えようがない。
 「体調に変わりはないの?」
これは早く子供が欲しいと思っている夫の何時もの質問だった。
 「変わりはないわ。もう三年になるのに」
 「不妊治療を始める?」
絶対に嫌だと婦美は思った。頭の中に俊子の面影が浮かんでいた。母親に なったらお終いだ。自分は身動きがとれなくなる。
 「一度二人で病院へ行ってみようよ」
 「そうね・・・。そのうち」
 「そのうち、そのうちって何時まで言うの?間に合わなくなったら大変だよ」
 「私はまだ二十五歳よ。あと十年は余裕があるわ」
  この人の子供だったら産んでみたい。今まではそう思っていた婦美だっ た。しかし今は混沌の中にいた。何故自分は無難にお見合い結婚したのだ ろう?まるで両親に操られたロボットのように。それは楽だったからだ。 俊子は二十七歳だったが、大人だった。それに比べて自分はいまだに 中学生のようだ。社会的訓練というものを受けていない。
  しかし夫は婦美のそういうところにも満足していた。そして今朝も大学 へ出かけてしまった。婦美は食器を片付けて洗濯と掃除をした。午前中に 家事は済んでしまう。

  午後、婦美は俊子から貰った名刺を見てみた。○〇建設企画部・・・。 前田俊。「子」は取り除かれている。男性とも女性とも解釈できる名前だ。 カミングアウトしたそうだが、それは成功したのだろう。誰も俊を女性と は思うまい。あの容姿、あの声では。この名前の変更は婦美には何の抵抗 もない。中高時代も俊と呼んでいたのだ。彼女は建築家になった。高校生 の時の希望どうりに。自分は当時から普通のお嫁さんになりたいと思って いた気がする。
  幾度か婦美は電話をかけそうになった。しかし怖れた。何を?それは、 夫より俊に惹かれているという事実を認めることになることだった。 俊は婦美の初恋の人だった。人は初恋を忘れ去ることは出来ないのだ。
  婦美は名刺を持ってソファに腰を下ろし、電話を見詰めた。秋から冬へ と変わりつつあった。クリスマスの想い出がよぎる。かつて俊と向かえた 幾度かのクリスマスイブ、それは忘れ難かった。中高時代に行われたクリ スマスのミサが思い起こされた。

  翌日の昼過ぎ婦美がソファーに座って、また俊の名刺を見ている時電話 が鳴った。ギクっとした。出てみると、俊の低い声が言った。
 「婦美?」
 「ええ」
 「誰だかわかる?」
心が躍った。
 「俊でしょ」
 「友人から多田さんの電話番号聞いた。婦美の携帯の番号とメルアド 教えてくれるかな?]
 [ええ、勿論よ」
婦美は夢のような気持ちで答えた。俊は言った。
 「そのうち連絡するよ。会ってくれと言ってもいいかな?」
 「勿論。勿論よ、俊」
 「今忙しいのでもう切るよ。旦那さん優しそうな人だね」
俊は続けた。
 「子供が出来ないんだって?」
 「ええ。両方の親から責め立てられているんだけど出来ないの」
 「じゃあもう切るよ。これから携帯に電話する。この声じゃ迂闊に 連絡できないよ」
 「声一体どうしたの?」
 「男性ホルモンを打ってるからだろう。今じゃヒゲまで生えるよ」
そう言って俊は笑った。  婦美は受話器をおくと寝室へ行ってベッドに横たわった。
 「シュン・・・」
彼女は小さく呟いた。

  俊は毎日昼休みに電話をくれるようになった。婦美はその時間までに 午前中の家事を済ませてひたすら電話を待つようになった。自分は高校生の頃とは違う。 聡との結婚で女になった。しかし今でも俊に惹かれる。俊は男性なのだ。

  十一月の末だった。そろそろクリスマスの気配が漂い始めていた。

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