十二月二十三日の朝、婦美は何時ものように七時半に夫を送り 出すと、直ぐ着替えて家を出た。クリスマスのドライブだ。心が 弾むようだった。二人は房総へ出かけることになっていた。
  とても寒い朝で、木枯らしが吹いていた。家の近所の人目のつ かないところに、俊の愛車が迎えに来ていた。俊はセーターに ジ−ンズ姿で運転席に座っていた。婦美が乗り込むと、車は直ぐ 発車した。
 「房総は暖かいよ」
俊は寒そうな婦美を見て言った。初めて海が見えた時、俊は左手 で婦美の手を握った。
  確かに暖かかった。二人は勝浦の魚料理の店で昼食をとり、岩 場を歩いた。冬の海は婦美には少し怖ろしかった。
 「婦美、写真を撮るからその岩の上に腰をおろして」
俊が言った。婦美は恐る恐る座った。その日は随分写真を撮った。 菜の花が咲いていた。婦美は楽しくて終始笑いがこぼれていた。 俊も楽しそうだった。海風が吹いていた。
  俊は館山の海岸で道路脇に入って車を停めた。そして婦美に クリスマス・プレゼントとしてサファイアの指輪をくれた。 婦美からのプレゼントはミラシオンのネクタイだった。
 「クリスマスは九年振りだね」
俊は感慨深げに言った。婦美はその指輪がとても気に入った。 そしてとても嬉しかった。しかし、普段身につけることはできない。 夫は不審に思うだろう。
 「もう帰らなくてはいけないね」
俊は言った。
 「婦美と一緒に夕ご飯を食べることは夢のまた夢だね」
 「両親の勧めるままに結婚してしまったわ」
 「高校の時もそうだったね。婦美は何時も両親の言う通りだね」
 「どうしてこうなんだろう」
 「いいんだよ。婦美のそういうところが好きなんだから」
 「何故?」
 「婦美は理想的な女性だよ。結婚に向いている。矛盾しているかも しれないが婦美のそういうところが好きなんだ」
そうして俊は寂しげに言った。
 「僕は先天的な失恋者だ。女らしい女が好きなんだ。そして女ら しい女は立派な男が好きな ものだよ」と言って、少し間をおいて続けた。
 「GID*と知って、寄ってくる女は好きになれない。健康でノーマル な女 が好きだよ」
  俊は婦美の肩を抱き寄せた。そしてキスをした。最初は軽い キスだったが、二度目は舌を絡めた濃厚なものだった。婦美も夢中 で応えた。長いキスの後、二人とも長く黙ったままだった。 俊はじっと海を見詰めていた。

 そうして二人は帰途についた。どうにか五時には間に合った。
  婦美は、楽しかった今日を思い出しながら、夕食の支度をした。 そして、俊の言った「先天的な失恋者」という言葉から、 9年前の別れが思い出され、涙が溢れた。

 聡が八時前帰ってきた。夫の顔を見て、婦美は不安な動悸を 感じた。

*Gender Identity Disorder(GID) : 性同一性障害

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