夜十時過ぎ、聡と婦美は、東京から千葉へ向かう総武線の快速電車に 乗っていた。夫は疲れたのか眠っていた。約35分で二人の家のある稲毛 まで着く。婦美は、俊子の面影を思い浮かべ、今日のことを思い出して いた。俊子の様子の全てを。俊子には自分がどううつり、彼は自分をどう 思ったであろう・・・そのことが気になり、酔ってはいたが、眠れなか った。彼女は、中高時代にも似た胸が締め付けられる自分の思いに気が ついた。そしてそんな自分に驚いていた。まだこんな気持ちが強く残っ ていたのか?彼女の小さいドレスバックには俊子のくれた前田俊の名刺 が入っている。殆ど消えていた残り火が、風に吹かれ燻り始めたようだ。 彼女は中学入学してからのことを想い出していた。

  前田俊子。この名を度々同級生の中で聞くようになったのは中学一年 の時からだった。級友達の多くは俊子に憧れていた。何時の間にか 「シュン様」という呼び名が流行っていた。俊子は学年で飛び抜けた 優等生だったが、同時にソフトボールに熱中しており、また快活でよく 周囲を笑わせていた。 前田俊子?なぜみんな騒ぐんだろう。あの二 年先輩のどこがそんなにいいんだろう。しかし、婦美も結局俊子に惹かれ ていった。多くの後輩がそうだったように。
  それは一年の夏休みのことだった。婦美はテニス部の部活をしていた。 俊子の下駄箱には毎日大量の手紙が入っているが、俊子は誰にも返事を 返さないという噂だった。婦美はテニス部の部活の時、ソフトボールの コートばかりを気にしていた。俊子は4番でエースだった。大勢の一年 生と二年生が練習を見物していた。やはり一年生より二年生が前に出て いた。一年生は二年生に遠慮しながら俊子を追っていた。三年生はさす がにいなかった。同級生の面子というものがある。しかし内心俊子を想 っていた三年生も多くいただろう。
    婦美は十二歳だった。夏休みが終わって九月には十三歳になる。テニ スの練習を終えてグラウンドを出る時、バッターボックスに入った俊子 が見えた。その横顔を見る度、婦美は胸が締め付けられる思いがした。 甘く切ない初恋だった。報われることもなく成就することもない。しかし 胸の裡に溢れてくる想いはどうしようもない。ただ苦しむだけしかない 青い恋。
  婦美は憔悴していった。両親はパッタリと食欲が落ち痩せてゆく婦美 を見て心配していた。
 「どうしたんだ、婦美。最近碌に食べないで」と父が言った。 父は公務員だったが、趣味で俳句をやっていて、何時も明るく陽気な 酒飲みだった。婦美は黙った。とても両親に話せたものではない。
 「婦美は最近おかしいのよ。食べないだけでなく夜も度々起きている のよ。二時三時に部屋の明かりが点いていたりするのよ」
父は心配気に婦美の顔を見詰めた。
 「成績も落ちているようだね。そんなことでは付属高校にさえ進学で きないぞ」
 「―お父さん高校まではあと二年あるわ。大丈夫よ」と婦美は言った。
俊子と同じ高校に行けないなんて絶対駄目だと思った。

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