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 第一章 再会

 婦美は浮き浮きしていた。十一月三日の今日は夫の大学の後輩の結婚式だ。 大安吉日ではないが新郎の誕生日なのだという。夫妻として招待されている ので、二人一緒の出席である。都内まで電車で行かなければならないが、夫 と二人で都内へ出掛けるのは久し振りのことだ。夫の多田聡は都会の人混み が大嫌いで、一緒に出掛けるのは何時も自然の多い田舎だった。久し振りの 東京でのデートだ。ドレスはあるしコサージュもある。特に買い物に行く必 要もない。それに結婚式は、人に幸福を感じさせてくれるものでもある。彼 女は時間をかけて念入りに化粧をした。そして香水はシャネルの19番を選 び、鏡の中の自分に満足して微笑んだ。

 婦美が結婚式を挙げたのは三年前だった。S女子大を卒業して直ぐのお見合 い結婚だった。それは婦美の両親の知り合いの紹介で大学四年の夏に二回目 のお見合いで決まったものである。親の意向を受け入れたともいえるが、 彼女自身も大学を出て就職するよりは、卒業後直ぐにでも結婚することを望 んでいた。婦美は就職活動にもうんざりしていた。多田聡は八歳年上で、あ る理工系大学の物理の講師をしていて、その将来が嘱望されていた。彼はど ちらかというと小柄で痩せぎすで、知的で優しい風貌をしていた。婦美より は、八歳年上だが、そのくらいの方が安心してついていけるのでいいと思った。 聡は、高校も私立の男子進学校だったし、大学、大学院と大学に残ることを 目指し、時間を惜しんで物理学に打ち込んできていて、女性経験には乏しか った。婦美の端整な顔立ちと健康で若々しい姿に一目惚れしたといっても良い。 婦美は素直なお嬢さんという感じであるが、大きな瞳にはその奥に激しい情熱 を秘めていた。

   結婚式の当日はその季節としては異常に暑い日だった。式は、都内のミッシ ョン系の大学内にあるチャペルで行われる。この大学は新婦の出身校であった。 二人は、十一時に家を出た。聡は礼服を着て婦美はニコルの黒いドレスを着ていた。
 新郎新婦はかなり緊張していた。二人はぎこちなく腕を組んでヴァージンロー ドを結婚行進曲のオルガン演奏の中歩いてきた。それは、婦美に自分の結婚式を 思い起こさせた。・・・ 婦美の結婚は、中学、高校、大学と一緒だった友人達 の中では、先陣を切っての結婚だった。式には友人達十数人も出席していたが、 皆テニス部の仲間だった。自分の結婚式だというのに婦美は妙に覚めていた。 出席してくれていた友人達の数人が泣いていた。彼女はそれを不思議な思いで 見ながら、神田明神で神式で行われた式に臨んだ。・・・
   我に返ると、結婚式は指輪の交換から二人のキスに進んでいた。鐘が鳴らされ、 拍手の中の退場である。今日も新郎新婦をみて涙している人々がいた。あっという 間に式は終わり、同じ敷地にある会館で長々とした披露宴が始まった。

  披露宴で聡と共に友人達の為の席に着いた時、丁度正面に当たる席について いた人物を見て、婦美は息を呑んだ。前田俊子に似ている。いや、似ているの ではなく本人だった。俊子は既に婦美に気付きあの独特なあやすような微笑を 投げていた。九年ぶりの再会だ。婦美は赤面した。
 俊子は、面長で端整な顔をしていたが、知的で、女性的な柔らか味には欠け、 少し冷たい感じがする。しかし、それは、その孤独な影とともに、彼女の魅力 であった。この魅力は高校生の時もあったが、その影は濃さを増していた。 存在感も強まり、九年間の人間的成長を感じさせた。今、ここで背広を着てネ クタイをしている姿は、しかし、どう見ても一人の美青年にしか見えなかった。
  俊子は新郎方の友人として出席していた。婦美には未に俊子が男性なのか 女性なのか判断できない。婦美は食事の出来る状態ではなかった。右隣には 夫がいる。俊子は相変わらず切れ長な目、知的な表情をしていた。そしてじ っと婦美の夫を見詰めていた。俊子は自分の結婚をどう評価しているだろう。 婦美は、自分の気楽な生活を、俊子のその切れの長い目で、見抜かれている ように感じた。そして自分を恥じた。自分は楽な道ばかりを選んでいる。 俊子はS女子大付属の女子校で中学と高校の二年先輩だったが、猛勉強で東大 の理科一類に現役で合格した。彼女は何時も学年二位三位とさえ次元の違う ところでストイックに勉強していた。一方、婦美は、二年後そのまま楽な S女子大の家政科に進んだ。
 「食べないね。どうしたの?」
夫が婦美に訊ねた。婦美は真っ赤になって答えた。
 「・・・なんでもないの。美味しいわ」
 「あまり食べないのでは失礼だよ」
婦美は苦労して目の前の鶏の香草焼きを食べた。しかしすぐにナイフとフォーク を食事の済んだ場所に置いてしまった。ボーイがすぐ彼女の皿を下げにきた。  俊子は寛いだ様子で食事している。その背広姿と仕草は青年そのものだ。 性同一性障害とは最近急に流行り始めた言葉であるが、俊子は男性なのか女性 なのか。婦美の裡で遠い昔の思い出が堰を切ったように渦巻いていた。 彼女は自分の結婚式の時よりも緊張していた。俊子の東大入学後から婦美は 彼女と会っていない。婦美の両親は強行に俊子との交際をやめさせた。そして 婦美はその両親の意向に逆らえなかった。婦美は披露宴の席で下を向きっぱ なしになってしまった。そして時々怯えたそうな眼でチラッと俊子を見た。 俊子は楽しそうにワインを飲み、隣席の男性と話していた。九年という歳月を 経て婦美に会ってもビクともしない様子だった。俊子は今二十七歳の筈だ。 彼女、あるいは彼は非常に理数系に優れていた。大学に進みそれからどうした のだろう。婦美は九年の歳月の自分の堕落を恥じた。この後悔にも似た思いに は、ほろ苦い懐かしさが混じっていた。心の闇は深い。
  宴は延々と続いた。驚いたことに俊子は新郎の友人代表として祝辞を述べた。 司会者は俊子を前田俊(シュン)さんと紹介した。俊子は名前を変えたのだろ うか。驚いたが、婦美には分からない。彼がマイクを持って話し始めると、 会場は爆笑に次ぐ爆笑となった。俊子の話は相変わらずおかしい。昔と少しも 変わっていない・・・婦美はそう思った。俊子の声は以前と比べて低くなり、 青年の声としか思えなかった。
 司会者の紹介によると、俊子は、新郎とは建築科の同級で、建築デザイン 研究クラブでも一緒で、彼女は今大手建築会社の企画課に勤務という。 意志の強い俊子のことだからおそらく我が道を突き進んでいるのだろう。
  俊子と婦美との眼と眼が合った。俊子はまたその独特な微笑みを浮かべた。 どこかひょうきんなまるで小さな子供をあやすような微笑。しかしそれは母親 の眼ではない。  

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